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い出集めNo.4 甲子枝ばあちゃん    

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 清秋じいちゃんの話があれば、連れ合いを紹介しないわけにはいかない。甲子枝と書いて

「きねえ」と呼んだ。甲子枝ばあちゃんは、良く新聞を読んでいた。家族中で一番の物知り

だった。筆を持たせれば家族中でこれまた一番達筆だった。

よくお袋と内職をしていた。色々な内職をしていた。割烹着姿のちいさな丸い背中が目に

浮かぶ。初めは黒龍という名前の化粧品のプラスティックの丸いケースのバリ取りと注射器

にラッカーを入れてケースの文字の刻印に色付けをする作業だった。はみ出したラッカーを

シンナーで拭きとっていた。シンナーの匂いが未だ忘れられない。これは、家の前がプラス

チックのケース工場だったと思う。大きなごみ箱が丁度玄関の対面にあり、鬼ごっこの格好の

隠れ場所だった。

 若い時は小さな身体ではあったが、トランジスターグラマー(今はこのような言い方は

しないかもしれないが。)で、またなかなかの美形であり、ボイン(このような言いかたも

しないかもしれないが・・)だった。性格は病弱の割には、いたっておおざっぱ。その証拠

に、親父の小さい時の話に良く出てくるが、おにぎりはいつも満丸で三角のおむすびが親父の

憧れであったようだ。線の細い気難しがりのじいさんとは、凸凹コンビだった。若いときから

身体が弱く、特に喘息を患っていた。咳込むと決まって、シュッ、シュツと器官拡張剤をやっ

ていた。但し、お袋ともめた時や我が奥殿と喧嘩した時も、その後妙に咳込んでいたようだ。

当てつけという奴だ。

 ばあちゃんの一番の思い出と言うと、一時期、大宮にじいさんと二人で住んでいた時、僕ら

孫との別れが辛いと見えて、ずーっと見送っていた時の様子。年をとるにしたがって人恋しく

なるものかもしれない。特に秋の夕暮れ時などは、涙をながしてたのかな・・・。大宮の家では

僕が行くと決まって串カツだった。串は家の前の竹林から竹の枝をきって作った。このため、

串からよく肉とネギがすりぬけて食べやすいような食べにくいような具合だった。

数え歌をよく聞かせてもらった。残念ながら完全に忘れてしまった。信州地方の数え歌だった

と思う。ちょっとさびしいメロディーだったという気がした。

そうそう、僕のじいちゃんとばあちゃんはいとこ同士。じいちゃんはもとの名字は林さんだった。

小学校の入学当初は革靴を履いていたというから、かなりの家柄。ところが両親が病死した為、

親戚を転々として、最後には建具屋の丁稚となってしまったという。信州の寒い冬、はっぴ一つで

親方に小突かれながら修行をさせられた話を良く聞いた。

両親が健在であれば、僕の名字も林であったはずである。昔の事、しかも信州の貧しい小さな村

出来事だったのだろう。信州の穂高が故郷と聞いている。小学校の頃、じいちゃんの妹がいた。

その人の所へ一度遊びに行ったとき、近くの川がやけに冷たく、ワサビにはこの冷たいきれいな水

が良いズラーと聞いた。いつか、もう一度じいちゃんとばあちゃんの故郷を訪ねてみたいと思って

いる。

     
思い出集めシリーズはこれで、いったん閉じさせていただきます。
     ありがとうございました。 
>> 現在は、新しい思い出作りの真っ最中です。